喫茶去

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掛け軸は、「喫茶去:きっさこ」 ー右から書いてありますー

2011年9月13日火曜日

第114回例会

 2011.9.9
 先週の例会日は大型台風12号が本土に上陸も間近でしたが、翌日の9.3はとうとう四国に上陸し、中国地方を抜けていきました。しかし、台風12号の雨量は極めて多く、爪痕は大きく紀伊半島地方では死者37人、行方不明者54人となり、台風被害では死者・行方不明者98人を出した2004年の台風23号以来、最悪の事態となりました。亡くなられた方のご冥福をお祈りします。
 
 今日の例会日は、いつも例会場として開放して頂いている安海塾長のご自宅の庭の草取りを有志の人たちで行いました。
 出席者は9名でした。今日は安海塾長より「福祉と私」と題して示唆に富んだお話しをして頂きました。(お話しの内容は活動模様の写真集のあとに掲載しましたので是非お読み頂きたいと思います)
 
 昼食の献立と食材
  ① 稲荷寿司
       油揚げ(市販味つけもの)、米、酢、砂糖、塩、白ゴマ
  ② ゴーヤーチャンプル
       ゴーヤー、ししとう、生姜、ハム、卵、ごま油、塩、醤油、削り節
  ③ ゆで汁そのままそうめん
       そうめん、もやし、玉ネギ、卵、顆粒チキンスープの素、塩
  ④ ネバネバ野菜炒め
       オクラ、モロヘイヤ、つる菜、ごま油、麺つゆ、白ゴマ
  ⑤ 茄子スライスの即席漬け
       茄子、青ジソ、麺つゆ 

 庭の草取り模様 
 除草は9時から11時前まで、ちょっと日差しがきつかったですが皆さん頑張って無事終える 事ができました



昼食の調理中の各メンバーなかなか手なれたものです。


チームワーク良く作業中です
 

 
 稲荷寿司の詰め作業


 今日の昼食大変美味しそうにできました。盛り合わせしたものです。
 (稲荷寿司、ゴーヤーチャンプル、ゆで汁そのままそうめん、ネバネバ野菜炒め、茄子スラ  イスの即席漬け)
 

 昼食を前に記念撮影
 


食事では草取りで汗をかいた後のノンアルコールがとてもおいしかったです

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 2011.9.9「 台所サロン 」例会資料

福祉と私   ひろ さちや(仏教思想家)

1)2人に1個のパンしかなかったら

仏教で福祉という観念を考えるならば、「布施」という言葉にそれが表れていると思います。人様に物を施すことが「布施」なのですが、これは、困っている人に差し上げるということではなしに、誰にでも布施の心をもって接するということです。
 さて、ここで、2人の人間がいて1個しかパンがないというとき、どうしたらいいか考えて見ましょう。
 選択肢としては、3つあると思うのです。Aは半分こして食べる、Bは1人が食べて1人が食べない、Cは2人とも食べない。
 この質問を小学生にしてみました。「お兄ちゃんがケーキを1個もらって帰ってきた。家には弟がいる。ABCのうち、どれを選ぶ?」と聞くと「先生、もう1つ答えがあるよ。お父さんに言ってケーキを買ってきてもらえばいいじゃない」と言われました。確かに、もう1つ「D=パンを増やす」という選択肢をつくれるわけです。
 日本の社会は、敗戦直後は本当に貧しかった。2人にパン1個しかないという時代でした。それで、半分こして分け合って生きてきたわけです。しかし、高度経済成長が始まって、パンを増やせ増やせという社会になって、もはやパンは4つも5つもあるという状況になった。
 ここで、半分こして食べるという選択肢をとるなら、2個半ずつ食べるわけですね。ところが、今の社会はそうではない。格差があります。勝ち組が4個食べて、負け組みが1個になっている。1個食べれば十分じゃないかと、勝ち組がのさばっている社会になっています。
 今、社会がこういう状況になっているという認識から、「福祉」ということを考えるべきだと思います。
 例えば、2人に1つの仕事しかないという場合、どうしたらいいかと聞かれたとします。もしも半分こするという発想があるのであれば、給料を半分にして労働時間を半分に短縮して、2人で働けばいいではないかという選択肢が出てくる。ところが、現実はそうではなしに、1人をリストラして1人が働く、そしてその職を得た人が税金を払って、リストラされた人を税金で援助するという考え方になっています。
 安易に首切りをせず、労働時間を短縮して2人で働こうじゃないかという欧米でいう「ワークシェアリング」という概念が日本の社会には殆どないのです。
 つまり、パンの話のA案が通らないのです。

2)仏教では福祉をどのように捉えるのか
 
そこで、仏教がどう考えるのかといったら、「2人にパン1個しかないなら、2人とも食べるな」です。
 私が子どもの頃は、家の中でいろいろな教育を受けたわけです。おばあちゃんなんかに言われたのですが、外で何をもらってきても、「仏様に供えなさい」と仏壇に供えさせられました。これはどんな意味をもつのでしょうか。
 先の例で言えば、お兄ちゃんがケーキを一つもらって帰ってきたら、まず仏壇に供えます。チーン、チーンと鳴らした途端に、お兄ちゃんの所有権がなくなり、そのケーキは仏様のものになるのです。そうして、じゃあ、仏様はどうされるかと言えば、「兄弟2人いれば、半分こしてお食べ」となります。
 そうすると、弟の方は、お兄ちゃんに「ありがとう」という必要がないわけです。仏様のものなのだから。お兄ちゃんの方も仏様からいただいたもので、自分のものではないんだとなる。そういう考えが「布施」という思想につながっていくんだろうと私は思います。
それを今の教育だと、大抵の家庭が、お兄ちゃんに「半分分けてあげなさい」と教えます。
 しかし、それは道徳心でしかないんです。宗教と道徳は全く違うものだと思って欲しいのです。
 道徳的にはお兄ちゃんが弟にあげればいいじゃないかとなります。しかし、その時にお兄ちゃんは、「オレがもらってきたんだからやりたくない」という気持ちが起きますね。弟の方も、お兄ちゃんが「オマエ、三遍回って、ワンしろ。そしたらあげる」などという態度を示したら、「そんなら、いらない」と不貞腐れたくなるときもあるわけですね。
 「福祉」という概念から言うと、「オレがオマエに恵んでやってるんだぞ。オマエはオレに感謝しろ」という気持ちでやったんじゃ福祉にならないと思うのです。そうでないためには、結局のところ、“仏様のものにしなければならない”というように私は思います。
 天台宗を開いた最澄は、「悪事は己に向け、好事は他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」と言っておられます。「忘己利他」と言います。お兄ちゃんが「オレがオマエにやるんだぞ」というのは、己を忘れていないんですね。己を忘れろと言う事において、仏様に全部差し上げようじゃないか、というのが慈悲であり、福祉になるわけです。
 「人に施す」というのは、自分が人にやるのではなくて、仏様に一旦お返しをするんだ、あらゆるものがみんな仏様のものなのだ、と考えるべきだと思います。
 また、曹洞宗を開いた道元禅師は、「布施といふは、不貪なり。不貪といふは、むさぼらざるなり」と言っておられます。むさぼらないことが布施なのだという考え方が大事なのだと思います。「私はいりません。一旦仏様にお返しします」という考えがむさぼらないことです。半分こするという概念の中でも、「オレも食べたいんだ、オマエだって食べたいんだろう」というむさぼりの心がある。それを止めることが「布施」だと道元は言っているのです。

3)この社会は「ご縁の世界」
 
 これは「自己犠牲」とも大きく違う。自己犠牲はまだ己を忘れていないわけです。オレが我慢してやっているんだという優越感を伴ってくる。そうすると結局、負け組みの人に対して勝ち組が優越感を持って、「オマエら、怠け者だからダメなんだ」と考えてしまう。
 私が布施というものを説明するときに、「満員電車の中でお年寄りや身体障害者に席を譲るのも布施なんですよ」と言います。しかし、これが本当の布施になるためには、年寄りを軽蔑して、「可哀想だから譲ってやる、座れ」というような気持ちで譲るのでは布施ではない。むしろ、席を譲った人が座っていただいた人に「ありがとうございました」と感謝をするのが布施だと思います。是非とも、福祉という問題を考えるときに、「私はさせていただくんだ」という気持ちを持って欲しいんです。
 息子が大学生の時のことです。始発の駅から電車に乗ったので、がらがらに空いているのですが、息子は座席に座らない。この電車はすぐに満員になるんだから立っていると言う。あ、そうか、自分が座りたいという気持ちを抑えて立っている。そうしてどなたか席を必要としている人にお座りいただく、これが布施なんだなと思った。初めからむさぼらない、これが一番いい布施かなと思ったんです。パンを2人ともいらない、仏様に差し上げる、それを仏様が分けてくださるという考えで生きたい訳です。
 そうでないと、つまり、どこかで宗教心を持っておかないと、今の福祉事業というものが、ぎすぎすするのではないかと思います。何か義務みたいになって、可哀想だから救ってやるんだという考えでいるのはよくない。
 動物学者によると、昆虫のアリは、コロニーの中で真面目に働いているのは2割で、8割は大体怠け者なのだそうです。働き者のアリだけ集めて集団を作ってみると、最初はみんな働いているが、しばらくすると8割は怠け者に変わるそうです。逆に極端な怠け者ばかり集めて集団を作ったら、2割は猛烈に働き始めたそうです。
 人間の社会でも同じだといいます。イタリアの経済学者のパレートが「パレートの法則」というのを発表しています。法則というより経験則なのですが、大体どの会社でも2割の優秀な社員が8割の仕事をこなしているのだと言っています。優秀な人だけ集めてきても同じようになってしまいます。
 私はこれを仏教の世界の言葉で言うと「ご縁の世界」だと言っているんですが、縁があって皆お互いに関係性をもって生きてるわけで、優等生がいるためには劣等性が必要なんです。競争社会においても負け組みがいるから勝ち組が出てこられる。100人が100人とも勝ち組にはなれない。
 仏教の場合は仏様、キリスト教や神道なら神様と考えてもらえばいいんですが、神様・仏様は、優等生は立派で、劣等生は死んでしまえなんて考えませんよね。神様・仏様は、劣等生が劣等生のまま幸せになってくれよと頼んでおられるんだと思います。優等生にならなければ幸せになれないというのはおかしい。この社会というのは「ご縁の世界」になっているのであって、それを勝ち組が負け組みに施してやる、お慈悲をかけてやるんだ、というふうに福祉というものを考えてほしくないんです。

4)させていただく、それがほんとの福祉

 わたしたちはみんあ一緒に生きているのです。金持ちがいると、貧乏人もいるわけです。金持ちにならないと幸せになれないかといったら、そうではない。神様・仏様は貧しい人は貧しいなりで幸せになってくれよと頼んでいるのです。
 ですから、勝ち組の援助、お慈悲によって生かされているというような考え方をとって欲しくないんです。勝ち組にさせていただいたのは、あなた方が負けてくださったおかげだと、勝ち組の方がお礼を言いながら、させていただく、それがほんとの福祉じゃないかなと思うんです。
 勝ち組が傲慢になって「オマエたちは怠けている」と言いますが、怠け者がいないと勤勉家が出てこれないわけです。優秀な高等学校の優秀な生徒ばかり集めた一流大学の中でもすぐ落ちこぼれは出るんです。だから、落ちこぼれというのを悪いやつだという見方は、宗教の見方ではないんです。みんなそのまんま生きてほしい、そにまんまで幸せになってくれよというのが、宗教的な福祉の精神だと思います。
 初めにお話したように、私が持っているものを一旦仏様にお返しして、今度は仏様からもう一度いただくという、三角関係と考えて欲しいんです。今の日本の社会は、三角形の頂点なしで、つまり宗教なしで、神様・仏様を通さずにオレが恵んでやるんだと三角形の底辺だけで物事を考えられている。是非とも三角関係で考える、もうひとつ絶対者というか仏様・神様、そういう方に登場していただいて、福祉は、それを必要とされている方に差し上げるのだと考えて欲しいのです。
 これを子どもだけに教えることはできません。親の方も、給料をもらってきたら、一旦仏様にお返し、仏様から女房にいく、子どもにいくんだ、そういう考えを是非、家庭の中でも日常生活の中でもっていただきたいと思っております。


NHK 社会福祉セミナー:平成23年10月29日(再放送30日)
NHK 第2放送 土曜日 午後6:45~7:10 日曜日午後0:15~0:40(再放送)

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